蕎麦の話題 8
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
|
![]() |
宝暦7年以前に関する大坂の麺類処の記述を資料でみるかぎり、屋号が挙げられているのは、元禄5年(1692)刊「諸国 買物調方記」に「順慶町渡部ノ角 桔梗屋佐兵衛」、続いて元禄10年刊「国花万葉記」に「心斎橋筋道修町 川口屋清兵衛」、その後新町遊郭のことを書いた宝暦9年(1759)刊「浪花青桜志」商舗の条に「信濃屋蕎麦麺(そばきり)瓢箪町三丁目東隅(かど)しなのや某とてそば切を業とす。宝永・正徳(1704〜16)の頃盛にして、享保九年(1724)失火(るいせう)後断絶す」とある。「蕎麦の世界」 新島繁・薩摩卯一 共著 |
![]() |
![]() |
![]() |
下の欄に砂場が見えるが、嘉永2年(1849年)に刊行された「二千年そでかがみ」のなかで、砂場について津国屋(作兵衛)の創業を天正12年(1584年)とうたっているが、残念ながら、砂場について同時代に書かれた文献は見つかっていない。 |
| 延宝7年(1679年)水雲編「難波雀」に素麺屋 かはら町 あんどうじ町」とある。 |
| 貞享3年(1686年)西鶴「好色一代女」巻五「鶴屋のまんぢう、川口屋のむしそば、小浜屋の薬酒、天満の大仏餅、日本橋の釣瓶鮨、椀屋の蒲鉾、樗木節の仕出し弁当」という件がある。 |
| 元禄5年(1692年)「諸国買物調方記」に大坂の索面屋として安堂寺町4丁目二郎兵衛、麺類屋に順慶町渡部ノ角上手桔梗屋作兵衛がある。 |
| 元禄10年(1697年)「国花万葉記」に桔梗屋のほかに心斎橋筋道修町川口屋清兵衛が紹介されている。 |
| 宝暦9年(1759年)「浪花青楼志」商舗の条りに信濃屋蕎麦切り瓢箪町3丁目東隅しなのや某とてそば切りを業とする |
| 安永6年(1777年)「浪花名物富貴地座位」和泉屋のうどんそば砂場々々とうたはれて、いさましげ也。賑はしきを風味として天王寺の玉やのそば寂称のそば切よのつねとは少し心をもたして新蕎麦の早きしらせも近き比茶心にこのみ深く |
| 安永6年(1777年)「難波丸綱目」浪花名物寄に、そば 道とん堀 じやくしよう 生駒 うどんそば 新町西口 砂場 |
| 寛政6年(1794年)「虚実柳巷方言」上巻の酒食の項に蕎麦 玉や 如軒、寂称 大利 やっこ 高麗そば すなば いが七 住むよしや 桶取 が列挙される |
| 文化11年(1814年)「大坂繁花風土記」に食品の名家のうち蕎麦について生玉塩町通 玉屋、追手せんなんすじ やっこ、心斎橋八まんすじ たば清、大宝寺町中橋 ふきよせ、北新地かな屋ろうじ大八、しらが町観音 しらが、堀江大ろうじ はぶたへ とある。 |
![]() |
![]() |
「心斎橋通初売之図」 「浪華百景」のうち 長谷川貞信画 「心才橋通りは浪花第一の繁花にして昼夜往来の絶る時なく順慶町より南戎ばし迄は殊に賑しく商家ならざるはなし正月二日は初うりにて未明より軒ごとに提灯を出し初荷年玉配りの声街に満て実に大都会のさまなりかし」 |
![]() 東福寺にある水麿の図 |
![]() 目立て師 |
![]() 上下臼が重なった状態 |
![]() |
碁の助言いひたくなると庭へたち |
![]() |
![]() |
||
| 大阪に三十石という手打ちそば屋が二軒あります。昭和40年代、大阪に手打ちそば屋がなくなろうとしていた頃にできました。現在まで30年以上手打ち一筋を貫いてます。(株)三十石(京橋)と(株)淀屋橋三十石は経営は別ですが姉妹店です。京阪沿線にあり、三十石船の航路(天満八軒家-伏見)にもなります。(京阪電車は淀屋橋-天満橋-京橋・・・三条、現在は出町柳が終点) |
|
1826年シーボルトは江戸から出島への帰路、三十石舟に乗っていました。 |
![]() |
1905年(明治38年)頃の 淀川の風景 京都へ荷物を運ぶ平底帆船 -The Japan Diaries Of Richard Gordon Smith |
![]() |
日本はもはやファーイーストの神秘の国ではなくなった。 |
![]() |
淀川は桂川、宇治川が淀で合流、更に南に30町、木津川が合流、摂津、河内の境界をなし大阪湾に入る。合流地点の淀の名称から淀川と称される。淀川は要所であった。(瀬戸内海-淀川-琵琶湖)豊臣秀吉は大坂本願寺と加能越の一向一揆とを結ぶ線の十字路に当たる伏見桃山に築城する。又、徳川家康は大坂及び伏見を特別行政地域として特別の機能を有する奉行を置いた。淀川流域の物流が増加するに従って、淀の町を初めとし船息り場は隆盛する。交野の渚院、枚方、橋本、山崎、八幡、淀、伏見には、それぞれ港湾都市としての特色を見いだすことが出来る。 |
![]() |
ここはどこじゃと船頭衆に問えば、ここは枚方鍵屋(かぎや)浦、かぎや浦には碇(いかり)はいらぬ、三味(さみ)や太鼓で舟止める(淀川三十石船舟歌) 近世淀川を上下した川船には、淀二十石船を含めて過書船の外に伏見船があった。元禄十一年、伏見繁栄のために許可されたもので、伏見・六地蔵津出しの荷物を引請け、宇治・淀・鳥羽・横大路・木津川筋へ運送するほか、過書船の営業区域における貨客の運送にも従事することが許された。江戸時代を通じて過書船と伏見船との間で、新造船の数等を巡る権益争いがあった。 |

![]() |
![]() |
|
| くらわんか舟 慶長年間大阪城攻撃の際、徳川秀忠(一説に家康なりと言ふ)の軍勢が真田幸村の奇襲を受け、一夜淀川船に乗じてあやうく危機を脱出し得たとの事である。その時、川船の船頭に賞を取らすにあたり、その船頭の云うに「乃公は此の先方の唐崎村という処に居る菓子屋の平六ぢゃ。自分は淀川筋で、川船に色々食物を商う商売であるが、何分にも田舎育ちのために言葉は良くない。夫れが為に武士なぞに時々非道い目に逢って困るから、今後は自分とは言わず川筋で物を商う商売には何んな立派な侍でも、言葉咎めをせぬ様に願ひたい」と、其の故にくらわんか船なる卑称が生じたと伝えられる。三十石船乗船の客に食べ物を「食らわんか」と売りつけたところからくらわんか舟と呼ばれた。当時使っていたくらわんか茶碗、皿(淀川を浚ったときにでてくることがある)は現在骨董市で高価ではないがマニアのあいだで人気がある。 |
淀川をのぼってくると、枚方には水門のそばに水準標がある。枚方は大きな村で大坂郊外の遊楽地で、上陸してみると遊女もたくさんいて、賑やかな町並みが続いていた。シーボルト「江戸参府紀行」より
|
![]() 散れかしと 思うは蕎麦の 花ばかり |
![]() |
![]() |
![]() |
風吹けば 白波寄せる 蕎麦の花
|
蕎麦の花 白髪頭に 緋の衣 蕎麦の花 咲かぬうちから 言合せ 棒で打つ 物とは見えぬ 蕎麦の花 蕎麦畑 葱も大根も 一座なり 打粉かと 庵の明地に 蕎麦の花 ほめられて 所はづかし 蕎麦の花 |
![]() 昭和30年代のソバ畑 |
![]() |