蕎麦の話題 5
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| 松尾芭蕉終焉石碑 が大阪市内にあります。 大阪市中央区久太郎町4-1-11(難波別院前) 元禄7年(1694年)松尾芭蕉は最後の句 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる を残し世を去ります。享年51歳。 この句は芭蕉が亡くなる4日前の10月8日の夜の吟と伝えられます。 終焉石碑のたつ場所は南御堂前にあった花屋仁左衛門宅跡地にあります。 |
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芭蕉句碑(南御堂境内) |
本町 南久太郎町交差点 (地下鉄御堂筋線 本町下車 7番出口) 終焉ノ地碑は御堂筋東側グリーンベルト内 芭蕉句碑は南御堂 庭園獅子吼園内(伊藤忠ビルの隣) |
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蕎麦もみて けなりがらせよ 野良の萩 |
| 蕎麦は まだ花でもてなす 山路かな | |
| 刈跡や 物にまぎれぬ 蕎麦の茎 | |
| 三日月の 地は朧なり 蕎麦の花 | |
| 麦の穂を 便りにつかむ 別れかな | |
| 柿の葉の 遠く散りきぬ 蕎麦の花 | |
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山畠や 蕎麦の白さも ぞっとする |
| 名月や 雪のようなる 蕎麦の花 | |
| 信濃では 月と仏と おらが蕎麦 | |
| 江戸店や 初そば掻きに 袴客 | |
| 痩山に はつか咲けり 蕎麦の花 | |
| 徳本の 腹をこやせよ 蕎麦の花 | |
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我のみの 柴折りくべる 蕎麦湯かな |
| ひとつ家の かしこ顔なり そばの花 | |
| わすれゐて 初蕎麦かきや 夕時雨 | |
| 落つる日の くぐりて染むる 蕎麦の花 | |
| 黒谷の 隣は白し 蕎麦の花 | |
| 道の辺や 手よりこぼれて 蕎麦の花 | |
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天保十年(1839年)まで大坂に住み、翌年三十一歳の時、江戸に下り北川家を継いだ喜田川季壮が著した「守貞漫稿」巻之五に、生業に饂飩蕎麦屋の項目がある。 京阪は饂飩を好む人多く、又売る家も専レ之えとし温飩屋と云う也。然も温どんやにてそばを兼ね売る也。江戸は蕎麦を好む人多く、商人も専とし温飩は兼ねて沽る也。 故に蕎麦屋と云う。、、、今世京阪の温飩屋、繁盛の地にて大略四五町或は五七町に一戸なるべし、所により十余町一戸に当るもあり。 江戸における蕎麦屋の分布状況を見ると、「毎町一戸あり、不繁昌の地にても四五町一戸也」と記している。江戸にくらべて大坂の温飩屋の分布の密度が薄いことがわかる。 「近世蕎麦随筆集成」新島 繁著より |
| 川柳歳時記(冬) に蕎麦湯と蕎麦掻きの項があります。 蕎麦湯 通人のことばはえせずそば湯のむ 本味のそば湯我が家でとれたそば お互いが歳をとりたるそば湯かな 蕎麦湯注ぎ足して話題がまだつづき 蕎麦掻き 蕎麦掻きへ極道ひとりめくら縞 蕎麦掻きを好んだ亡父の猪口でのむ 蕎麦掻きの二人血圧恐怖症 夜の冷え母の蕎麦掻き思い出し |
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| 霜 草 蒼 蒼 虫 切 切 村 南 村 北 行 人 絶 独 出 門 前 望 野 田 月 明 蕎 麦 花 如 雪 |
霜草は蒼蒼として虫切切たり 村南村北行人絶ゆ 独り門前に出でて野田を望めば 月あきらかにして蕎麦の花雪のごとし |
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もともとそば切りは、汁をつけて食べるものだったが、元禄(1688-1704)の頃から、汁をつけずにそばに汁をかけて食べる「ぶっかけ」がはやるにつれて、それまで汁につけて食べたそばと区別する必要に迫られる。そこで考えられた名称が、「もり」である。安永二年(1773)「俳流器の水」にて「お二かいはぶっかけ二ツもり一ツ」の記述がある。「蒸篭に盛る蕎麦を盛りといひ、盛蕎麦の略なり」「守貞謾稿」嘉永六年(1853) -鈴木啓之そば博物館- |
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かつて団子坂にあったという蔦屋 |
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| 蕎麦 残月 高さ6.4センチ口径17.0センチ 名品茶碗で紹介されています。 銘の残月は薄青色と枇杷色の片身替りを、暁の空の残月に見立ててつけたもの。地肌、色あいが蕎麦に似ているところからこの名がでた。井戸の側(そば)という意味もある。腰で段ができ、高台は土見ずという形に特色がある。 |
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